ギリシアの東と西
流浪の民 クセノファネス
先までの舞台でした商業都市ミレトスから北に60Kmほど行くとコロポンと呼ばれる地が見えてきます。クセノファネス(Xenophanes 前570頃?-前470頃)はここに生まれ、彼が二十五歳、前546,545年に、ペルシアによってミレトスともどもイオニア地方の沿岸諸都市が占領されて、故郷を離れたといいます。それからは南イタリアの特にシチリア島を中心に流浪の生活を67年送ったたそうです。後にも扱う南イタリアで栄える「エレア学派」の祖パルメニデスはクセノファネスに学んでいるとも言い、ちょうどイオニアに学んだ彼は、その話の真偽はともかく、東に学んだ知恵を西に伝えていく人々のうちの先鋒になっていきます。彼は一人の流浪な詩人、哲学者として、南イタリアにイオニア哲学の伝導者としてではなくクセノファネスという人間として影響を及ぼしました。今回は地中海世界の東と西を股に掛けたこの人物を見ていきたいと思います。
彼は様々な形式の詩の形で哲学的内容のものを語ったため、哲学者と呼んでよいものかというところもありますが、単なる詩人と同一視することもできないところがあります。とりわけすぐ近くにミレトスがあるためか、自然に関する哲学的視点にはそれが色濃く反映されています。テオフラストスという人は彼がアナクシマンドロスに学んでいたという風にも述べています。彼からは真正断片とされる言葉が多く残されていますから少し見てみましょう。
断片27
「なぜなら、地からすべて(自然万有)は生じ、最後にまた地へとすべては還る。 『ソクラテス以前の哲学者』p.222断片29
「およそ、生じて生長するかぎりのものは地と水である。」p.222断片30
「海は水の源、また風の源。大いなる海なくしては、雲の中に内部から外に向かって吹き出す風の力も生じなかっただろうし、河川の流れも天空の雨水も生じなかっただろう。大いなる海こそ雲、風、河川の海の親。」p.222断片33
「なぜなら、われわれすべては地と水から生じてきたのだから。」p.223
ここではですから、クセノファネスはアルケーを「土」と「水」であると考えて良さそうなものです。一方アリストテレスと、先に出たテオフラストス(アリストテレスの建てたリュケイオンの二代目の学頭)はクセノファネスを哲学者として扱うのに躊躇っていたようですので、『形而上学』では次のように言っています。
しかしクセノファネス、これは一者を唱えたこれらの人々のうちの最初の人であるが、というのは、バルメニデスはこの人の弟子であったと言われるからであるが、 この人は、その説くところはすこしも明確でなく、またあの二つの自然〔両原因〕のどちらにも触れていないようであり、ただ世界全体をかえりみつつ一者は神であると言っただけである。
『形而上学』986b(岩波上巻p. 43)
ソクラテス以前の哲学者の断片について
そしてちょっと注意になるのですが、私は一般的に断片を引用する時に用いるヘルマン・ディールスという人が出して、後にクランツという人が今ある形に遺している『ソクラテス以前の哲学者断片』という資料から直接引いていません。この本ではA項(各哲学者の生涯、著作、学説にまつわる間接的な伝承など)、B項(今日まで伝わる各哲学者の真正断片)、C項(模倣作など)に分けて和訳本だと六巻ほどの量で編集されているのですが、自分自身楽だったということももちろんですが、この内の真正断片であるB項を、代表的な哲学者に絞って第二部で列挙してくれている、『ソクラテス以前の哲学者たち』(講談社学術文庫1997年)をここでは用いています。解説や見解もまとめて文庫本にしてくれている一冊ですから、何か前情報もなく、はるか古代の声に素朴に触れようという時、非常に助かる本だと思います。ディールス・クランツのものが扱いづらく良くないというのではもちろんありません。20世紀のほとんど初め頃から有力な資料であり続けたこの偉大な功績は、その後も様々な形で編集し直されている多くの価値ある「ソクラテス以前哲学者断片」に対して、今なお力強く影響力を持ち続けています。まずもってA項にあたる間接的な伝承がなければ、私たちはほとんどアナクシマンドロスやアナクシメネスについて知りません。先の文庫本を見て貰えば分かりますが、アナクシマンドロスの真正断片など一ページにかなりのゆとりを残して収まってしまいます。ですが、何事も全体あって部分ありだろうと思います。単に哲学者たちに対する輪郭をまずは得ようとするならば、目当ての哲学者たちよりもよく分からない人々の証言が延々続くこの本を六巻も読み切るなんてことは順序が異なって大変だろうと思います。ですからこうした見通しがきく本を一冊持っておくと何かと便利だと思います。色々話が折れてきてしまいましたから、ちょっとこの辺のところは別ページで番外編としてご紹介することにしましょう。
クセノファネスの「一なる神」
話をクセノファネスに戻すと、彼を一人の流浪の人にしている要素にその特徴を見ることができると思います。彼はイオニアに生まれ、青年期までを過ごしながら、ホメロス(そしてヘシオドス)に対しても批判を加えています。何についてかと言えば、神についてです。ホメロス以来引き継いできたギリシア人にとって神とはオリュンポスの12神を代表とする神々です。その神々の姿はいかなるものでしょうか。ホメロスなどに見える神々はは欠点やまさに「人間らしい」醜い一面も多分に含みます。ギリシア語のみならずヨーロッパ語に深く通じ、ギリシア自体の歴史、神話にも研究を進めていた高津春繁という人が遺した『ギリシア・ローマ神話辞典』という今でもよく引かれる日本語の名著がありますが、そこにはほとんどありとあらゆる神々についての諸説の姿が紹介されます。歴史上の人物や文学の登場人物のように、あれをしただの、どういう人間に何をしただのと実に多様な事ごとが描かれ、それが神ごとに変わっていますからそういう辞典まで編まれるというわけです。かと言え辞典ですから中々取っ付き辛くもありますから、古くから読まれている、野上弥生子さんが訳した、プルフィンチの『ギリシア・ローマ神話』は非常に読みやすく今にも面白いので是非手に取ってご覧になって欲しく思います。前書きには漱石が本名の夏目金之助と添えて弟子であった野上さんの苦労を労った文章もあってこれもまた面白いです。
また少し話が逸れてしまいました。ともかく、このようにホメロス以来(というよりそれ以前から)何度も再解釈が続いてきた擬人化して神々を理解するこの伝統を英語でAnthropomorphism と言います。これが、クセノファネスには故郷の大詩人の核心とはいえ受け入れ難いものでした。それは、信仰に熱心なあまりというわけではありません。往々にして、日常的感覚が思考や思想と睦まじいこの時代には一つの神に対する盲目な信仰というものはあまり見えません。次のクセノファネスの詩を見てみましょう。
断片1
「…略…まず、心よき人びとのなすべきことは、敬虔な物語と浄らかな言葉をもって神を讃えまつること。
さて灌奠をおえ、正しいことを実行する力を
与えたまえと祈願したなら、ーーすなわちこれこそがいちばん手近な祈りーー
ひどく年老いているなら別だが、君が供の者なしでも家に帰りつけるなら、
あとはいくら飲んでも、けっして間違ったことではない。
だが、人びとのうち讃えるべきは、飲んだあとでも、記憶と徳への熱き思いのおよぶかぎり、歌い語りをみごとになしとげる人。
ティタンたちやギガスたちやケンタウロスたちの戦い、
つまりは昔の人びとの拵えごと、
あるいはまた凄まじい内戦のことなどーーこんなつくりごとに何の益もないーーけっして語らずに。
つねに神々にたいして、敬いの念をもつことは善きことである。」p. 215-216
最後の行の「つねに神々に」というところはミソでしょう。彼は結局「一なる神」というものを語ることで有名になるのですが、ここでもギリシアの神々を疎かにしているわけではありません。ですから彼の場合その宗教性は神への信仰心よりもまず、世界に対して人よりも敬虔に生きようとした部分にあるのです。その態度は懐疑的で、ある意味では誠実だった精神から生まれたと言えます。
なるほど敬虔さからホメロスたちがある意味神聖な神々を戯画化していることは認められます。そのおかげで面白くはあっても、確かに何でもかんでも俗らしくなってしまっては静謐な神秘を人生に見出すことはできなくなってしまいます。そんな世界は彼のように批判精神の強い詩人の高潔には堪えられないでしょう。しかしそれだけではただ時代や世間と趣味が合わないという感性や神経の反抗に過ぎないものになります。詩人としてはそれでもいいでしょうが、彼を哲学者たらしめているのはそこから批判に転じていることです。
断片11
「人間の世で恥とされ、疾しいとされるあらゆるものを、神々に捧げたのだ、ホメロスとヘシオドスは。すなわち、盗むこと、密通すること、互いに騙しあうこと。」p. 219断片12
「彼ら(ホメロスとヘシオドス)は、神々のあらんかぎりの無法な仕業を語った、すなわち盗むこと、密通すること、互いに騙しあうことを。」p. 219-220断片14
「だが、人間どもは思いこんでいる、神々が生まれたものであり、自分たちと同じ衣服、姿、声をもつと。」p. 220断片15
「だがもし、牛や馬、ライオンが手を持っていたら、あるいはまた、手によって描き、人間同様の作品を造ることができたなら、馬は馬に、牛は牛に似た神々の形姿を描き、彼らそれぞれがもつ形姿と 同様な(身体)を造ることだろう。」p. 220
重要な根拠は断片の15に見えます。言われてみれば、なぜ神と言えば人間と決まっているのでしょう。『創世記』の1.26-27でも人間は神の形を模っていると言われます。これは神を懐ける私たち人間の特権なのでしょうか。そうした話もいずれは触れるとして、確かにクセノファネスの指摘は鋭く、少なくとも神々が人間型の存在であるという根拠もこの時点で示すことはできないことでしょう。クセノファネスはそこから生産的に「神とは何か」について一つの型を提出します。
断片23
「一なる神、神々と人間どものうち、最も偉大にして、その姿においても、心においても、死すべき身の者どもにいささかも似ず。」p. 221断片24
「(神は)全体として見、全体として考え、全体として聞く。」p. 221断片25
「だが(神は)苦もなく、精神(こころ)の思惟の力によって、すべてを揺り動かす。」p. 221断片26
「(神は)つねにおなじところにとどまり、いささかも動じない。ときにあちらへらときにこちらへと赴くことは、神にふさわしからず。」p. 221
ここに「一なる神」という話が出てきます。それは一神教的な意味での神というよりはまだアルケーのように世界の根本原理というニュアンスが強いです。なので後世に出てくる意味ではありませんが、しかしこれをモチーフとして南イタリアにはパルメニデスを初め哲学的な示唆として受け取った「エレア学派」という人々が現れ、これを継いでいきます。
クセノファネスの人間観
最後に、彼がそこに打ち出した神に対して人間とはどういうものかということを述べているのでそれについても見ていきましょう。
断片34
「確実なことを見た者は人間の誰ひとりとしてなかったし、神々について、また私の語るかぎりのすべてのことがらについて、それを知る者は、これから先も誰もいないだろう。なぜなら、たとえ偶々、完璧な真実を言いあてたとしても、彼自身それを知っているのではないからだ。すべての人間にとっては思惑があるのみ。」p. 223断片35
「これらのことがらは、真実に似ただけの下のと思いなすがよい。」p. 223断片36
「現象している限りの一切のもの、それは死すべき人間どもが見るためのもの。」p. 223断片38
「もし、神が黄金色の蜜をつくりたまわなかっら、人びとは無花果をはるかに甘いといっただろう。」p. 223
このように、人間にはどうしても届きえないものがあるとクセノファネスは言います。それらは真実であって、もしこれに出会ってもそれが真実だと示せなければやはりそれはすべて人間がそうだと信じているだけの思惑に過ぎないのです。これは後のプラトンの思想や懐疑主義という人たちの思想にも通じるかもしれません。そしてさらに厄介なことに、クセノファネスはそうした真実に人間は辿り着けないものとして、さらに神々の世界を思い描けてしまうために、この世に満足することはできないものとまで言うのです。これはしかし近代にあるような悲観主義に結びつけるべきでもないことだとは思います。彼にとっては人間が敬虔に生きるべきことが旨としてあるのであって、あくまで人間の身の程を戒める程度のものだったと思われます。人間にはむしろ、真実には決して辿り着けない中で、思惑を頼りに、それでも敬虔に善く生きていかねばならない。驕るべからず。そうしたところを前向きに取りたくなるのは、次のような断片があるからかもしれません。
断片18
「まことに神々は、最初から人間どもには明かしはしなかった、人間は探究しつつ、時とともに、より善きものを発見していくのだ。」p. 220-221
そういう意味では哲学もそれ自体本質的な営みでもないのかもしれません。彼の言うように、一挙だに知ることは神にしか許されず、私たちは自分たちの生の中から、少しずつ様々な歩みによって知ってゆくべきなのかもしれません。
次は、彼の後の世の南イタリアの、また数学の祖でもあったピュタゴラス学派をみていきましょう。
前のパート 〈アナクシマンドロスとアナクシメネス〉
https://doma-on-the-margins-of-thought-history.com/western-history-part3/
次のパート 〈ピュタゴラスとピュタゴラス学派〉
https://doma-on-the-margins-of-thought-history.com/western-history-part5/
今回の参考文献
・『哲学の歴史 第一巻 哲学誕生 始まりとしてのギリシア』
中央公論新社 2008年 責任編集:内山勝利
・『A New History of Western Philosophy In Four Parts』
Oxford University Press 2010 著:Anthony Kenny
・『ギリシア哲学史』
筑摩書房 2021年 著:納富信留
・『概念と歴史がわかる西洋哲学小辞典』
筑摩書房 2011年 編者:生松敬三、木田元、伊藤俊太郎、岩田靖夫
・『ギリシアの哲学者たち』
著:W.K.G.ガスリー 訳:式部久、澄田浩 理想社1973年
・『古代哲学史 タレスからアウグスティヌスまで』
著:A.H.アームストロング 訳:岡野昌雄、川田親之 みすず書房1987年
・『西洋哲学史 古代から中世へ』
著:熊野純彦 岩波書店2006年
・『西洋哲学史 上巻』
著:A.シュヴェーグラー 訳:谷川徹三、松村一人 岩波書店1939年

コメント